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私たちが生活している社会において、コミュニケーションは一定の基準(ルール)の上に成り立っています。それが、どこでも通用する画一的なものであれば、守ることはさほど難しくはないでしょう。 ★しかし、どこでも通じる単一のコミュニケーションやルールなどは存在しません。 私たち人間の社会はグループを構成することで成立していますが、グループができると、そこに集団規範というものが生まれます。つまり、「オキテ」ができて、「仲間だよ」という意識付けが行われるのです。 そして、同時に「オキテ」を破る者に対しては排除の論理が働くようになります。 そのルールは、たとえば、会社の就業規則のような形に明文化されることもありますが、それはごく一部にすぎません。 ★コミュニケーションの「オキテ」のほとんどは、「暗黙のルール」として存在しており、人間は「経験を積む」ことでそれを覚えていくことになります。 広くとらえるなら、「空気を読む、読まない」などというときの「空気」がそれに当たるといってもいいでしょう。やっかいなのは、その「空気」が時代や社会、あるいは所属する集団によって違うことです。 しかし、社会人になり、特定の組織の一員となったとき、同じ理屈は通用しなくなっていた。それを学んでいなかったことが問題なのです。言葉は情報の一つにすぎません。それを鵜呑みにすると痛い目に遭うのです。
人間の発する言葉は高いレベルでコントロールされていることを知ることが大切です。 言葉は、人類が獲得したコミュニケーション・ツールの中で、最も後天的に備わったものであり、洗練されたツールのひとつです。人間がより多くの情報をより正確に伝えることができるのは、言葉を獲得したからであります。 ★しかし、言葉はさまざまな思考を通して発せられるものだけに、発した人間の本心を表したものとは限りません。 たとえば、相手が嫌いだからと、ぞんざいな言葉でクライアントに接するビジネスパーソンなど存在しません。あくまでビジネスパーソンとして節度を持った、ていねいな会話を心がけるはずです。 それが暗黙のルールであり、それができない人は1日たりともビジネスマンとして仕事をしていくことはできないでしょう。 つまり、言葉はいくらでも本心を隠して発することができるし、悪意を持って美辞麗句を並べることも可能ということです。 ★ですが、その一方で、人は言葉以外にもさまざまな形で情報を発信しています。たとえば、「表情」や「しぐさ」がそうです。 たとえば、好意を抱いている相手には心からの笑顔を浮かべることができますが、あまりいい印象を持っていない相手に対しては、その気持ちがつい表情に出てしまうものです。つまり、無意識につい眉をひそめて相手を見てしまいます。 そういう意味では、「表情」や「しぐさ」のほうが「言葉」よりよほど本心を表しているのです。つまり、言葉もさることながら、言葉以外の情報をいかに正確にキャッチするかが重要です。 その能力を高めてこそ、本物のコミュニケーション力を向上させることができるようになるし、結果的に自分の能力を遺憾なく発揮できるようになるのです。
京都では、訪ねた先で帰りがけにぶぶ漬け(お茶漬け)をすすめられたら、客は丁重にお礼をいい、申し出を断って(言葉通りに受け止められずに)帰らなければいけないというルール(風習)があります。 そろそろ帰ってほしい客にストレートにそういうのは無粋だとして、かわりにお茶漬けをすすめるようです。 これは、京都の歴史・文化に根ざした非常に複雑なコミュニケーションが行われていることを前提としていますが、そうした背景を知っておかないと、発せられた言葉の本当の意味を理解し、対応することはできないことを示しています。 こういうケースは、私たちの生活シーンに常に存在しています。人と人とがよりよいコミュニケーションをとろうとするとき、相互理解を目指そうという気持ちが働くものです。言葉を発するほうは、相手にわかるように説明しようとするし、一方、聞くほうも相手を理解しようとして聞こうとします。 さらに、お互いに「刷り合わせ」が行われることもあります。わからないことがあったら質問するし、その質問に対して説明を加えることで、相互に理解を深めようと努力します。その努力があれば、一致点も得られやすくなります。 しかし、世の中、そうとばかりはいきません。相手がパーンと投げかけた言葉に適切に対応しなければならないことは少なくないはずです。 ★受け手側は、相手がその言葉を「どんな状況で」「どんな意図で」口にしているのかを考えなければならなし、「文脈を読んでそれに即した解答を得たうえで、その解答にしたがって、自分がどう行動すべきかを決定していかなければなりません。 特に仕事上のことについては、その判断は大切です。もし、間違った解答を導き出し、それに従ってズレた反応をした場合、相手にしてもらえなくなる危険性すらあるからです。
人間が行う情報伝達のすべてにおいて言語は不可欠なものであり、言葉が存在しているからこそ、私たちは情報を効率的かつ正確に伝達することができます。 ★しかし、その一方で、人間は言葉以外の情報伝達手段を「本能的」に持っています。 たとえば、子猫に対して人が手を振り上げると、子猫は上目遣いで見上げつつ、グッとを身をすくめます。恐怖あるいは脅威を感じるからです。 これは、危険を察知した動物が、わが身を防衛するために無意識にとってしまう視線であり、しぐさなのです。 そして人間もまた、動物である以上、そうした本能から逃れることはできません。たとえば、隣に立っている人が急に手を振り上げたら、ほとんどの人は子猫と同じように上目遣いで相手を見ながら身をすくめてしまうでしょう。 それはどんなに屈強なプロレスラーでも同じです。一瞬であっても、本能的に身構えるはずです。 脳が思考し、情報を分析して状況に応じた行動をとる以前に、体が勝手に動いてしまうのです。 ですから、たとえ殴られることなどあり得ない状況でも(たとえば会社で、怖い上司から叱責されたときなど)、ついつい上目遣いをして、身をすくめてしまう、というしぐさが表れます。そして、それは本能的なものであるため、本人すら気づいていない場合がほとんどです。そうした本能的なしぐさは、体のあらゆる部分に表れます。 私たち人間は、言語を獲得する以前から持っていた情報伝達手段を数多く受け継いでいるとされています。 その代表が、「表情」「しぐさ」「行動空間(パーソナルスペース)」などですが、いずれも、本能に根ざしたものだけに、時として本人も気づかないままに表出してしまいます。 ★このように「表情」「しぐさ」「行動空間(パーソナルスペース)」などには言葉以上に本心が表れます。本心を隠したくても隠せないものです。人間は言葉だけでなく、「全身」で情報を発しているのです。
私たちのコミュニケーション・チャンネルは、大きくは、音声的(視覚的)チャンネルと、非音声的(視覚的)チャンネルに分類されています。 ★人類が本能的に持っている情報伝達手段は、非音声的(視覚的)チャンネルに分類され、「ノンバーバル・コミュニケーション」(非言語コミュニケーション)と呼ばれています。 @ 顔面表情・・・感情表現・視線など A 身体動作・・・ジェスチャー、姿勢、身体接触など B 行動空間・・・対人距離。着席位置など このノンバーバル・コミュニケーションの研究が始まったのは最近で、1960年代に入ってからのことです。 それ以前は、文化人類学、民俗学などで異文化研究が行われたり、動物学による研究が行われたりするなど、バラバラに研究されていましたが、第二次世界大戦後、航空機が発達して民間レベルの異文化交流が盛んになるとともに、「そもそもコミュニケーションとは何か」という命題に目が向けられるようになってきました。 ★「文化圏が違うと、言語体系が違うから当然のように言葉は通じません。ですが、身振り手振りで何とか意思が通じるじゃないか」ということになったのです。 ボディランゲージという言葉と概念が誕生したのも、この頃のことです。 そして、1971年にアメリカの心理学者アルバート・メラビアンが「メラビアンの法則」を提唱したことで、ノンバーバル・コミュニケーションはさらに注目されるようになりました。彼は、人は感情や態度について矛盾したメッセージを誰かから受け取ったとき、どんな要素(情報)を優先して判断しようとするのか、実験を行い、次のように発表したそうです。 ・話の内容などの言語情報が7% ・口調や話す速度などの聴覚情報が38% ・見た目などの視覚情報が55% たとえば、ある人がある人に「君は悪くない!」といったとしても、視線を外していたり、浮かない表情をしていたりしていた場合には、受け手側は、「あ、この人はホントは私のことを責めているな」と判断するケースが圧倒的に多かったそうです。 つまり、言葉(7%)より、聴覚情報(38%)や視覚情報(55%)などのノンバーバル・コミュニケーションのほうが優位だったのです。
たとえば、「これは本だ」という言葉と、「私はビールだ」という言葉を比べてみると、「これは本だ」という言葉は、「これ=本」として成立します。しかし、「私はビールだ」は、「私=ビール」ではないのだから成立しません。 ですが、「何を飲みたい?」「私はビールだ」という文脈ならば、「私はビールだ」という言葉も、「私はビールが飲みたい」といっていると解釈され、コミュニケーションが成立します。つまり、規則(文法)は同じでも、状況によって異なる捉え方ができるのです。 こうした例は、「相手との関係性の違い」によっても表れてきます。 たとえば、「昨日の、アレ、おいしかった。また行こう」といった場合、昨日一緒に行動していなかった人は何のことやらまったくわかりません。 ですが、行動を共にした仲のいい友だち同士なら、それだけで何がおいしかったのか、どこにまた行こうと言っているのか、十分に伝わります。 ★つまり、共有意識が多いと必要最小限の言葉でコミュニケーションが取れるのです。 逆に仲のいい友だちに必要以上のことを伝えるとかえって誤解を招くこともあります。 たとえば、それほど親しくない人に「君はとてもいい人だね」と言ったとしたら、言葉通りに受け取って喜んでもらえるでしょう。 しかし、日頃から仲良くしている相手に対して、今さらながらのように、「君はとてもいい人だね」と言ったら、「何、皮肉を言っているんだ」と思われるかもしれません。 つまり、状況によって「言葉の意味」と「話し手が伝えたい意図」とが違ってくることもあるのです。 まさに、言葉を文字通りに受け取ってはいけない、相手との関係性やそのときの状況に応じて相手の真意を正確にとらえることが大切だ、ということになります。 ★さらに、人間の「表情」や「しぐさ」も普遍的なものであり、生物学的に同じ基盤を持つもので、その根源的な感情として「驚き」「恐怖」「嫌悪」「怒り」「幸福」「悲しみ」の6つがあげられます。 これらの「感情」は、当然「表情」となって表れ、人類の共通的なものであります。 ですから、言葉より表情やしぐさのほうが信頼できるのです。
人は常に本心を表情に表すとは限りません。時として感情(本心)を隠す、という術も学習しているものです。 たとえば、政治家などの中には、たとえ汚職を追求されても、まったく表情を変えることなく自分の潔白を主張する人がいます。あるいは、実際にはやってもいない研究成果を発表して、たとえそれが露見しても事実無根と言い張るような人もいます。 そんな人はどんな社会にも存在するし、決して少数派ではありません。 人は本心を隠し、欺瞞(偽り)の仮面をかぶることができます。 役者などは、まさに欺瞞の仮面をかぶるプロだといえるでしょう。与えられた役どころに応じて、どんな感情表現(表情)でもして見せ、観客を感動させるのですから・・・。 そして、それは役者に限りません。 あなた自身だって同じように、意識する、しないは別として、本心を隠して日々の生活を送っているはずです。 その中で、折り合いをつけながらコミュニケーション能力を高める必要が出てきます。もし、その努力を怠れば、「使えないヤツ」「空気の読めないヤツ」という烙印を押されかねません。 ★ですから、他人の表情やしぐさから相手の本心を読み取ると同時に自分の表情やしぐさをうまくコントロールすることを学習していくことが求められるのです。 しかし、表情やしぐさは、すばやい閃光のように一瞬浮かんでは消えてしまいます。それを読み取るのはなかなか難しいです。 一方、自分の表情やしぐさをコントロールしようと思っても、本能的なものだけに、たいていの場合は不完全に終わってしまいます。たとえ、イヤな相手に愛想よくしようと思っても、不快な表情を止めることは至難の業であり、相手に読み取られてしまうことになります。 ですが、ビジネスシーンで能力を発揮する人の多くは非常に表情が豊かだし、相手をいつの間にか自分のペースに引き込む技術に長けています。また、そんな人は自ら認識しているか否かは別として、相手の本心を読み取る能力に長けています。 ★ですから、ノンバーバル・コミュニケーションとは何かをしっかりと学んでおく必要があるのです。 |
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